気ままな日記 |
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2月2日 文集作りで、500枚子どもの作文を印刷した。 両面印刷で10ページ。5×500で2500枚印刷したことになる。 500枚もあると、紙をそろえるだけでも一苦労である。 100枚ごとストップしてそろえる。そしてまた印刷。その繰り返しである。 紙をそろえるのにまごついていると、先輩の先生が紙のそろえ方を教えてくれた。 紙を両側に持ち、一度折るように曲げてからそのまま、またまっすぐにする。 そうすると紙の間に空気が入りそろえやすくなる。 やってみるとうまく行く。 「これも先輩から教えてもらったんだよなあ」とその先輩先生は言っていた。 10年目で初めて紙のそろえ方を知った。 自分の無知に対し恥ずかしさを覚えたが、また一つ勉強になった。 2月1日 漢字文化の授業を行う。 (三日月の絵)→ と板書する。 「この形から出来た漢字があります。何と言う漢字だと思いますか?ノートに書きなさい。」 この問題はすぐに出来る。 「できました!!」 出来た子に板書させる。 (三日月の絵)→月 「大正解。あっていた人?○」 ここからが問題である。 もう一度先ほどの三日月の絵を書く。 「この形から出来た漢字が実はもう一つあります。なんという漢字でしょうか?ノートに書いてごらん。みんなもう習いました。」 子ども達は必死で漢字スキルを見ている。 ノートを持ってくるが×のオンパレード。 私は黙って×をつける。 そのうち一人が正解を持ってきた。 国語があまり得意ではない子だ。 私は大きく丸をゆっくりつけて「大正解!!すごい!!」といった。 教室に「ええー!!」という声が響く。 正解した子は「やったー」とガッツポーズをし、大事そうにノートを抱えて席についた。 こういう逆転現象があるとたまらなくうれしくなる。 子ども達は次々ノートを持ってくる。 でもまた×のオンパレード。 「○○君、みんなわからないみたいだから答え教えちゃおうか?」 そういうと「だめー!!絶対だめー!!」子ども達が絶叫する。 そのうちに一人、また一人と正解者が出る。 どの子もピョンピョンとびはねて席に戻っていく。 ほとんどの子が正解したところで解説を加える。 「正解は『夕』。夕方になってだんだん暗くなるとお月様が出るでしょう。まん丸のお月様もあれば三日月もある。 これはその三日月を表しているんです。夕方になって出る三日月。そこから『夕』という漢字ができました。」 漢字文化の授業は面白い。 1月30日 今日は床屋に行った。当たり前のことだが、シャンプーの仕方、かみそりの使い方どれ一つとってもプロである。 お金を取っているのだから当然だが、自分にはそう意識が薄いと思う。 床屋は腕が悪ければお客は来ない。 来なきゃつぶれる。 しかし、教師は腕が悪くても子どもはくる。 出来の悪いのを子どものせいにするときもある。 これでは「プロ」という言葉は恥ずかしくて口に出来ない。 「さすが先生の教え方は違う!!」そう言われてやっとプロらしくなるのだと思う。 「親、子どものせいにしない。」これはプロに近づくための最低条件である。 1月25日 同僚にY先生という先輩の先生がいる。 いつも明るく楽しく、そして力のあるベテランの先生である。 学ぶところがたくさんある。 「今日、子どもに電池のプラスとマイナスを教えたんだ。」とY先生。 「どうやって教えたんですか?」と私。 「でべその方がプラス、平らなほうがマイナス。」 ここまではよくある。しかしここからがすごい。 「先生、実はでべそなんです。見たい人はそばにいらっしゃい。」 子ども達、ぞろぞろと前に集まってくる。 「見せるぞ。ほら。」 何とY先生のおへそには、磁石が貼ってあって、でべそになっている。 「キャー」「わー」「もうその磁石触れない!!」 子ども達大騒ぎである。 「教材研究面倒だから、こんなことばっかりやっている。」 と謙遜するY先生。 しかし、子ども達の脳には「Y先生のでべそ→電池のでべそ→プラス」がエピソード記憶としてインプットされたに 違いない。 しかし、Y先生のような明るさユーモアは教師にとってとっても大事な要素だと思う。 今日もまた勉強になった。 1月24日 今日は「左」という漢字を教えた。 「エ」の部分は何かという問題をだした。これは難しかった。 ノートに書いて持ってこさせる。×が続く。 こういう問題は良い問題である。 誰が正解するかわからない。出来る子も出来ない子も正解する可能性があるのだ。 今日はそれでもクラスで一番出来る子が正解した。 こういうことがあってもいい。 正解は「定規」である。 「定規を押さえるとき、左手で押さえるでしょ。だから左という漢字になったんだね。」 そう説明した。 1月21日 国語で「右」という漢字を教えた。 練習をしているときに「この漢字の口の部分はわかるけど口じゃないほうは何だろう?」といっている子がいた。 こういう疑問を持つ子どもはすばらしい。 何も考えず言われたことをだだやるだけのこどもよりずっといい。 早速授業で取り上げる。 「今、○君が『右と言う漢字の口の部分はわかるけど、残りの部分はわからない。』と言っていました。とっても鋭い発言です。この部分、いったい何を表しているのでしょうか。」 ノートに答えを書かせて持ってこさせた。 なかなか正解は出ない。 「みんなの体のあり部分です」というヒントでやっと答えがでた。 「この部分は、手を表しています。右利きの人は右手で箸を持ちますね。その箸を今度は口に持っていく。」 「それで、口があるんだ。」と子ども達。 「その通り。」子ども達はなるほどとうなずいていた。 子どものつぶやき、そのつぶやきへの対応。それは知識がなければ対応できない。 右という漢字を教えるならば、教師は少なくともその字源を調べておく。 そうすることで、とっさの子どもの発言に対応することができるし、授業にも広がりが出てくる。 1月20日 今日、「スケート級表」を子ども達に渡した。スケートの出来る期間は三週間くらいである。 その三週間、びっちり子どもにスケートを滑ってもらい、上達してほしいと思う。 スケートは「寒い」「面倒だ」「痛い」と思っている子が多い。私もそうである。でもだからといってそれを教師は微塵もだしてはいけない。 「スケートは面白い」という子を増やすのが教師の仕事である。 今日級表を手にした子ども達は早速休み時間にも練習をしていた。もちろん私も一緒に行く。 級表だけ渡して「あとは自分たちでやりなさい」といったって子どもはついてこない。 縄跳びの時だってそうだった。級表を渡し、なおかつ休み時間にも一緒に練習をみてあげる。そして誉める。 そうすることで子ども達は徐々にやる気を出すのだ。 1年生だから、もちろん全然すべることが出来ない子がいる。その子たちを一周転ばずにすべることが出来るようにするのが今の目標である。 1月19日 今日から学校が始まった。やはり子ども達といると気持ちが引き締まる。 二学期に習った漢字のテストをやった。 50問だした。冬休み中に練習してくるように言っておいたものだ。 結果は20人中18人が90点以上。もう二人は86点と70点だった。 どの子も冬休み中に練習してきたことが伺えた。 忘れてはいけないのは、これは保護者の方がたくさん協力してくれたということだ。 私の指導によるものではない。 しかし、こうやって教師と保護者が協力しあえば、こどもの能力は2倍にも3倍にものびることは確かである。 1月18日 今年の冬休みはいい本をたくさん読んだ。木の城たいせつの社長が書いた「常識への謀叛」。アントニオ猪木の「俺の魂」。スケルトン選手、越和宏の書いた「弧闘」。どれもたった一人で自分の道を切り開いた人たちの話である。 特に越和宏選手の本はすごかった。自分にはとても真似できないが、魂だけは自分も同じでいようと思った。 明日から学校が始まる。 日常の中で自分の感覚が鈍らないように常に上を目指していこうと思う。 1月17日 土曜日は中西サークル。一日どっぷりサークルをした。田中、中田先生や佐野先生、鈴木先生と遠くからもたくさんの先生が参加した。どの先生も「学びたい」という意欲満万である。エネルギーを感じる。そのエネルギーで自分はますます元気になる。 模擬授業の出来は50点くらい。楽しく出来たのだけは合格。あとは授業の組み立てだ。飲み会でしこたま飲む。久しぶりに二日酔い。飲みすぎは良くない。次の日は全然動けなくて1日ぼーっとして過ごした。今日はようやく体が動くようになった。 「飲みすぎない」「飲みすぎても量を考える」それが今年の目標である。 今日は学校に行って、スマートボードを組み立てる。校長先生も快く「学校に置いておいて良い」と言ってくれた。 理解のある校長に恵まれて自分は幸せである。 昨日計根別サークルを立ち上げた。馬場先生に「宍戸は早くサークル作れ」と言われ、踏ん切りがついた。 自分が誰かのために役立つのであれば、その仕事をしよう。そういう時期にきている。 1年生用のスケートの級表も作った。濡れても大丈夫なようにラミネートもした。子ども達のがんばりにつながればと思う。 平成17年1月13日 今日は10年目研修。根室のニホロにて「国際交流」の研修。ロシアの料理実習や施設見学、ロシア語講座も行った。 どんな状況であっても楽しくやる。それが自分の信条。ロシア人講師とも仲良く食事した。同じ時を過ごすなら楽しいほうがいい。 楽しく過ごせただけで、自分は良い時間を過ごしたと思う。楽しく過ごすにはそれなりの努力が必要である。 楽しくないときぶすっとしているのは簡単。楽しくないときでもニコニコして何とか楽しくなる方法を探す。そうすると必ず楽しくなる方法が見つかる。 明日は中西サークル。ここでは努力する必要はない。なぜならいるだけで、すべてが楽しいからだ。 |